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コラム 7 ビットコインくん

07 自由の源としての自由市場

前回のクイズでは、自由市場がもつ経済的な重要性について紹介しました。自由市場という場が、人々が自由に取引する場でありながら、その具体的な取引の積み重ねによって形成される「価格」というものを軸に、中央の管理では実現できないような、極めて巧妙で壮大でダイナミックな営みの場となっていることをお伝えしました。

しかし、自由市場の意義は、単なる経済的な重要性にとどまるものではありません。前回も登場した、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやフリードリヒ・ハイエクといったオーストリア学派の経済思想家たちによると、自由市場は、倫理的な観点からも重要なものだと考えられています。

彼らの考えでは、自由市場は、人々の自由や平和、自律性や多様性、などといった倫理的側

面にとっても、必要不可欠なものなのです。今回は、そういった自由市場の倫理的な側面について、ご紹介します。

自由市場とは非暴力的な欲求調整の場

自由市場とは、物やサービスの交換が、人々の自由意志に基づいて自発的に行われる場で

す。好きな商品を選び、自分が払ってもいいと思う価格なら、買いますし、そうでないならやめます。売る方も、売りたいものを作り、価格を決め、それで買ってくれる人がいるなら、取引成立です。

これらの一連の行為は、すべてが選択の自由に根ざしています。また売り手と買い手は、基本的に対等であり、そこには命令も、無理やりの服従もありません。色々と例外もあるかもしれませんが、大前提として、自由市場とはそのような場です。当たり前のようですが、これは極めて重要な点です。

これは言い換えると、非暴力的に多くの人々の欲求を調整する仕組み、ということです。他の動物の世界では、このようなことは基本的に成立しません。力による奪い合いが基本です。また人類の歴史の中でも、富や資源を得る手段として、戦争や略奪、権力による支配が、当

たり前のように行われてきました。

それに対して市場というのは、人間同士の利害を調整するための、もっとも平和的かつ建設的な制度と言えます。市場では、ある人が他人から何かを得ようとする場合、それに見合った価値、お金を提供しなければなりませんし、お金を受け取る方は、そのお金に相当する物、サービスを、責任をもって提供します。奪うのではなく、与えることによって受け取るのです。その交換は、暴力ではなく、自由意思に基づく、取引と合意によって成り立っているわけです。

こういった市場取引の背後には、他者の権利を尊重することによって、自分の自由も確保される、という暗黙の了解があります。このような関係性は、非暴力的でお互いを尊重した関係、それに加え、自己決定の重視、責任の受容といった人間の在り方によって成立しているものでしょう。本当に当たり前のように思えますが、改めて考えると、自由市場というのは、非常に高度な文化的、倫理的営みなのです。

自由市場は購買行動を通じた意思表明の場

また、もう一点、理解しておくべき自由市場の特徴があります。私たちが、自分の価値観に従って商品を選ぶという行為は、私はこれを価値あるものと考えるという、個人的意見の表出です。言い換えると、自由市場における購買行動は、単なる消費行為にとどまらず、ある種の社会的意思表明といえるのです。

例えば、私は甘納豆が好きですが、甘納豆を好きな私のような人々が、一定数いるからこそ、

甘納豆は販売されます。甘納豆を買うという行為は、そのお金を払ってでも、甘納豆が欲しい、という意思表示であり、そういった意思の集合が、実際に甘納豆という商品がつくられ、販売されることにつながっていくのです。

私たちの購買という意思表示が、小さいながらも、市場に影響を与え、それが集まると、やがて、商品・サービスという結果が返ってくるのです。

しかも、この購買という名の市場への意見表明は、日々何度でも行われます。その小さな積み重ねによって、商品やサービスが、刻一刻と、動的に変化し、価格が形成されます。そこには中央集権的なコントロールはありません。にもかかわらず、いや、それだからこそ、自由市場は、極めて多様でありながらバランスの取れた、秩序ある社会を作り上げることができるのです。

自由市場は、単に物が売り買いされる場所ではなく、一人一人が自分の価値観に従って選び、それらの集合が、交差し、衝突しつつ、共存できる場であり、極めて多様な価値観共存の場でもあるのです。

自由市場は多様な価値観を受け入れる

以上のような自由市場の性質は、多数派だけではなく、少数派の価値観が尊重されるための

条件にもなります。自由市場は上述のように、個人の自由を尊重し、価値観を制限しません。買い手の価値観を限定せず、売り手が自由に商品やサービスを作れる場であるからこそ、

多様な商品、サービスが自然発生し、形成されていくのです。

私たちの欲望や価値観は、実に多様です。ある人は、ケーキが好きかもしれませんし、ある人は甘納豆が好きかもしれません。ある人は、スポーツにお金を払い、ある人は映画が趣味かもしれません。Amazonでは、本当に誰が買うのかと思うようなニッチな商品も手に入るようになりましたし、ハリウッド映画が好きな人も、マニアックな映画が好きな人も、今ではどちらも観ることができます。大きな都市部に行けば、かなりマニアックな商品専門店や、サービスのお店もあるでしょう。サブカル、オタク、アングラなどというニッチな世界も、非常に奥深く広がって文化を形成しています。

もちろん、少数派の需要は、なかなか供給が作られないでしょうし、作られたとしても価格は高くなるでしょう。欲しいものがニッチすぎて、なかなか手に入らないことは、自由市場でも度々あるでしょう。

しかし、中央の機関がすべてを決めていくような計画経済に比べれば、はるかに多様性が生

まれます。一部の政治家だけが、商品、サービスを決める世界を想像してみてください。

もしも国会で、今年市場で販売する商品を決定するとしたら・・・・ぞっとしますね。

つまり自由市場は、少数派の価値観、希望、権利がより守られる、優れたシステムでもあるのです。

不十分さはあったとしても、他の強制や制限が働くシステムよりも、はるかに文化的多様性や個人のアイデンティティが尊重される世界を作り上げるものであり、自由、社会的な寛容といった理念を、実際に成立させる場といえるのです。

消極的自由と積極的自由

ここで「消極的自由」と「積極的自由」という言葉を紹介しましょう。イギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンは、自由には、二つのまったく異なる意味があると指摘しました。

ひとつは「消極的自由」と呼ばれるもので、これは自分の行う事を制限されない、他人や国家に干渉されない、といった、干渉や妨害の不在としての自由です。

もうひとつは「積極的自由」で、自分の望んだことを行う、したいことができる、自己実現する、といった意味の自由です。

どちらも素晴らしいものだと思えますが、しかしバーリンは、積極的自由の考え方は、ともすると政府や国家が「あなたのため」と称して、かえって自由を奪ってしまう危険があると警告しました。

たとえば、貧困や無知、社会的不平等によって自由が奪われている、として、国家が教育や福祉を通じて個人の自由を「助ける」という立場につながります。

しかしその結果、本当の自由とはこうあるべきだ、と国家が決め、それに従わせようとすることで、自由の名のもとに自由が侵害される、という事態が起こりうるのです。こういった問題をバーリンは警告しました。

自由というものを考えるうえで、非常に示唆に富む視点ですが、今までみてきたような、自由市場における自由は、国家の干渉を最小限にとどめるという「消極的自由」の発想を土台としています。人々が自由に取引し、価格が自然に決まる仕組みは、まさに干渉されないこと、が前提になっているわけです。

自由市場の喪失がもたらすもの

しかしこういった自由市場の基盤は、常に維持されるとは限りません。市場が国家により制限され、自由な選択が不可能になるとき、経済的な問題のみならず、深刻な倫理的問題が発生することとなります。

たとえば、社会主義国において、政府が生産や消費、労働のあり方を完全に計画・統制する

ような計画経済が導入された場合、人々の選択の自由は大きく制限されます。それは上に述べたように、市場での取引という形の、人々の選択と意思表示も奪うことになります。

その結果、多様な価値観を持つ人々が、自ら判断し、行動し、生きるという人間的営みが消えてしまいます。そしてそれに呼応する形で社会に生まれ、発展し、進化し続けるはずだった、多様な商品、サービス、そして文化は消滅してゆきます。

自由市場が消滅するということは、単なる制度の変化ではなく、人間の自由、自律、多様性、

価値観といったものが失われることに他ならないのです。

最初に挙げた、ミーゼスやハイエクといった経済思想家たちは共通して、このような視点で、

自由市場の倫理的な重要性を主張しました。彼らは、国家が市場をコントロールすることで、自由市場の機能が喪失し、その結果、経済的自由のみならず、思想の自由、言論の自由、価値観の自由、さらには人生の選択の自由が失われ、結果として、人々が隷属状態に陥っていくと考えたのです。

善意による管理が自由市場を失わせる

さらに注意すべきなのは、こうした自由の喪失が、必ずしも悪意によってもたらされるわけではないという点です。

多くの場合、自由市場への介入は平等や公正といった理念のもとで行われます。さきほどのバーリンの、積極的自由、という発想によるものです。再分配政策、価格統制、福祉の拡充など、これらは一見すると、社会正義の実現を目指す善意に基づいた政策のように見えるかもしれません。

しかし、往々にして、そこから生じる結果は、上に挙げたような経済的な自由のみならず、あらゆる自由の喪失なのです。

ハイエクの主著の一つである「隷属への道」は、まさにこの構造を描き出したものでした。

自由は、暴力や圧政だけでなく、自由市場に対する善意の介入や過剰な保護の名の下にも、

容易に失われてしまうのです。

そして、ビットコインへ

自由市場とは、経済的効率を追求するための仕組みであると同時に、人間の自由を守るため

の倫理的にも不可欠な制度だという思想をみてきました。そして、自由市場は、ともすると、善意の名のもとに壊れてしまうことがあるという説明をしました。

そして、最後にやはりビットコインですが、それは中央権力に依存せず、個人の自由と自立によって成立し、強力に経済的自由を守るために設計された、きわめて自由市場的な思想を体現する技術です。

そしてさらに、貨幣としてのビットコインが社会に広まることは、自由市場を守り、アップデートする、大きな手段でもあるのです。

さて、これまでの話を土台として、次のテーマは、貨幣発行の自由化です。いよいよ、ビットコインに直接的に関係するテーマに近づいてきました。お楽しみに!