ビットコインはなぜ重要なのか、という問いへの一つの答えとして、ビットコインは自由市場を守り、アップデートする可能性を秘めたものだから、という捉え方があります。
しかし、そもそも自由市場とはなんでしょうか。それがどうして、守るべきもので、アップデートされるべきものなのでしょうか。率直に言って、自由市場はとてもとても、さらにもう一回、とても!重要なものです。極めて優れたシステムであるだけでなく、社会の土台となる、倫理的にも高い価値を持つ仕組みです。そしてそれは歴史の中で示されてきたことでもあります。
ビットコインの本質的な意義を理解するためには、自由市場の重要性を理解することが不可欠です。そこでこれから2回にわたり、自由市場の重要性について説明していきたいと思います。
そもそも自由市場とは何でしょうか?まず市場というのは、簡単に言えば、個人や企業など様々な人々が、物やサービスを取引する場です。それが自由であるというのは、政府など外部の強制的な介入や制限のない市場ということです。
例えば、街に出ればたくさんのお店があって、日々私たちは買い物をしたり、取引をしたりしています。基本的に誰でも、買い物できるし、お店を出すこともできます。そういった、参加も取引も価格設定も、人々の自由にまかされている場が、自由市場です。実際には、日本でも多くの規制や制限が加えられており、完全な自由市場では全くないのですが、イメージとしてはそのようなものです。
自由市場について語るとき、非常によく引き合いに出されるのが、「見えざる手」という言葉です。これは、経済学の父と謳われる アダム・スミス の言葉で、自由市場では、個々人が自分の利益を求めて行動しているだけにも関わらず、その結果として、社会全体としては秩序だった経済活動や配分などが成り立つ、という現象を表した比喩です。
実際、市場というものは、誰かが全体を設計しているわけではないのに、いや設計していないからこそ、驚くほど秩序だった営みです。人が作り出した仕組みでありながら、誰の指揮もなく動き続ける、極めて巧妙で驚異的で、壮大な営みと言えるものです。
では、ちょっと長くなりますが、自由市場とはどのようなものか、「価格」という観点を中心にしつつ、概観していきたいと思います。
ある時、トマトの価格が高騰したとしましょう。その背景には、天候不順による不作、物流の遅延、他の野菜との相対的な人気の変化、あるいはエネルギー価格の上昇など、さまざまな要因が複雑に絡み合っています。
しかし、トマトの買い手には、そのような個別事情を知らなくても、トマトの価格が上がった、という事実によって判断を変えることができます。イタリアレストランのシェフは、なんだかわからないけど、トマトの価格が上がったな、お店で出す料理は、ほかの食材を使おう、と思うかもしれません。
こういうことが、社会全体で「価格」という基準が変わるだけで波及します。誰かが上から指示したわけでもないのに、社会の人々自ずから、品不足のトマトの代わりを探したり、儲けるチャンスとトマトを増産できないか生産方法を工夫してみたり、といったことが行われます。
こういった価格に影響を与える要素は、社会の中にあまりに膨大に散らばっており、かつ、流動的です。またそれは可視化されたものとも限りません。現場の知恵だったり、瞬間的な特殊事情だったり、暗黙的で個別的な、数値化困難な要素も非常に大きな影響を持ちます。そういった膨大で様々な要素を、一元的に集めて、活用するのは至難の業でしょう。
しかし市場取引により形成された、価格というシグナルを通じることで、社会の中に散らばる膨大な要素が、その全体像を誰も把握していなくても、利用可能になります。価格というシグナルをみて、人々が自発的に行動することで、社会全体が変化し、時には、新たな発見や、生産活動を生み出すことにつながるのです。
また、自由市場では様々な企業が日々、創意工夫して競争しながら、何かを作ったり、サービスを生み出したりしています。そういった創意工夫にも「価格」という基準があることが必要です。例えば、製品を作る際に鉄を多く使うか、別の素材で代替するかは、鉄の価格によって判断されます。鉄の価格が他と比べて高ければ、鉄は社会全体で希少であり、他の用途でも強く求められていると分かります。そのため企業は鉄の使用を控えたり、代替素材を検討します。逆に価格が低ければ、鉄を使うことは無理のない選択だと判断できます。材料だけでなく、土地、工場、機械、労働力など様々なものが、価格という基準で比較できるからこそ、何をどのように組み合わせ、生産するのが良いか比較検討できるわけです。
また、一つの企業内だけではなく、ある企業はAを作り、ほかの企業はBを作るなど、分業によって、生産を行ったほうが効率的なことも多いでしょう。この効率性ということを判断するためにも、様々なものの価格をみて、その組み合わせを考えることで比較、判断ができます。
以上のように、自由市場において価格は極めて重要な要素です。「価格」については、また後でさらに深堀するので、覚えておいてください。
さて、企業が実際に商品の販売までたどりつきます。ただ企業が参考にできるのは過去の情報であって、創意工夫して作った商品も、大ヒットすることもあれば、全く売れないこともあるでしょう。
市場での取引を通じて初めて、企業の創意工夫が成功だったか、失敗だったかわかります。つまり、利益、損失、という結果がフィードバックされるわけです。時には、今まで全くなかったような画期的な新製品を企業が創り出し、大変高価な価格でも人々が喜んで買うかもしれません。人々が何を求めるか、というのは変わり続けるものであり、利益・損失は事後的にしか分かりません。企業には常に挑戦が求められます。
人気があって価格が高くても売れるようなものには、多くの企業が参入するでしょう。そして生産が増えていきます。逆に、価格が安くても、全然売れない商品や産業は、そこに需要がないことを示します。価格を基準に考えて、コストに見合った利益が得られなければ、企業はそういった分野からは撤退し、その産業は淘汰され、供給は減っていくでしょう。
市場は常に変化し続けます。人々の需要も変化し続けます。市場では常に、多くの企業が利益を求めて、様々な創意工夫がなされ、挑戦、競争、淘汰が起き続けます。市場というのは、過去の情報を参考にしつつ、不確実な未来に向けて、試行錯誤を繰り返しながら、変化し続けるプロセスだといえます。
以上のことは、見方を変えれば、人々の需要に合わせ、市場にある資源・リソースなどの利用の仕方や配分が、変化し続けているという捉え方もできます。
はじめの鉄の例でいえば、かつては蒸気機関車へ鉄を使った方がよかったでしょうが、今なら産業用ロボットに使った方が良いでしょう。企業の競争を通じて、材料や土地、工場、機械、労働力など、ありとあらゆる生産構造の改変、組み換え、配分変化が行われ続けているわけです。
つまり自由市場は、企業の創意工夫、利益と損失、競争と淘汰、といったことを通じて、人々の需要に合わせて、資源や資本財などの利用や配分が、変化し続けるプロセスということもできるのです。
そして、また「価格」です。以上のようなことが行われるには、市場での取引を通じた価格形成が、根本的に必要です。最初にお伝えしたように、価格は、社会に散らばる知識を伝達するシグナルであり、また、様々な財や資源を比較するための基準となるものでした。利益や損失といったフィードバックも、取引を通じた価格があってこそのものです。
もし価格が、人為的・恣意的に決められたものであったならどうでしょうか?たとえば、原材料である鉄の価格を適当に1円と決めてしまえば、帳簿上の利益は簡単に大きく見えるかもしれませんが、それはインチキです。
比較やコスト計算、利益・損失の判断が、意味あるものであるためには、その基準となる価格が、社会の多様な要素を、素早く柔軟に伝えるものである必要があります。また、さらに重要な点として、価格が人々の需要や欲求、価値観といった主観的な評価を反映したものであることが不可欠です。なぜかというと、何が希少で、何が求められているのか、ということは、人々の主観的な評価と切り離すことができないからです。
そして、そういった社会に散らばる様々な要素、人々の主観的評価を反映した形での「価格」を形成するには、自由市場における具体的な取引が必須になるのです。
社会の中には、何千万という物の価格がありますが、それぞれが、個別の具体的な無数の取引を通じて形成されます。売り手も買い手も実際に、市場で取引するからこそ、価格が、様々な要素の影響を受けつつ、主観的評価を反映した形で価格が形成されてゆきます。
市場取引で、売り手と買い手の主観的な評価がぶつかり合ったところが、価格となるわけです。さらにそれが、刻一刻と柔軟に変化し続けます。
つまり、市場で具体的な取引が積み重ねられるからこそ、膨大で多様な財や資源に対して、計算に使える意味ある数字として「価格」が、形成され続けることが出来るのです。
最後にもう1点、重要な要素を追加します。こういった価格形成の土台には、人々の財産権が確保されていることが、決定的に必要だということです。自分の財産が自分のものであるからこそ、人々は自分の資源と他人の資源を交換することができます。つまり取引が可能になります。
また、心理的にも財産が自分のものであるからこそ、人々は真剣に取引や挑戦をします。買う場合もそうですし、企業で働く人々も、自分の働いたことが自分の利益となるからこそ、今まで見てきたような創意工夫やチャレンジ、競争や協力が働きます。その結果、取引が行われ、価格が、計算に使えるものになるのです。自分の財産が、自分のものであるということは、価格形成、ひいては自由市場そのものの、根本的な条件ともいえるのです。
以上、「見えざる手」と例えられるような、自由市場の概説でした。人々に財産権があり、自由に自主的に取引が行え、社会の様々な要素の影響を受けつつ、売り手買い手の主観的評価を反映した形で取引が行われ、その結果として価格が形成され、その価格がシグナルとなり、また比較や計算が可能になり、創意工夫や競争淘汰が生まれ、利益損失のフィードバックが行われ、資源や資本財などの配分が変わり、再編成が行われ、その後も人々の需要は変わり続け、市場や価格も変化し続け、・・・といった自由市場のダイナミックで変わり続ける営みがあってはじめて、現在のような社会が成立しているのです。
さて、自由市場の重要性は、歴史の中で、様々な人物によって語られてきたものです。18世紀のアダム・スミスに加え、20世紀に入っても、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやフリードリヒ・ハイエクといったオーストリア学派と呼ばれる人々が「経済計算」、「知識の分散性」、「自生的秩序」、というような概念を提示し、自由市場の重要性を強く主張しました。
ハイエク は、自由市場のような秩序を「自生的秩序」と呼びました。それは、誰かが意図的に設計したり、社会全体を計画したわけではないにもかかわらず、人々がそれぞれ自由に行動した結果として形成される、巧妙な秩序のことです。市場のほか、自然言語もその代表的な例として挙げられます。そしてハイエクは、こうした秩序は個々人の行動の積み重ねによって成り立っており、人為的に設計・操作しようとすると、かえってその機能が損なわれてしまうと考えました。
しかし、歴史的には、人類はこのような自由市場抜きで、経済を作り上げていこうとしたことがあります。それが社会主義における計画経済です。20世紀前半、自由市場と計画経済のどちらが人々の幸福と社会の繁栄をもたらすのかという問いが、世界規模で議論されました。
当時の時代背景として、アメリカやイギリスをはじめとする資本主義諸国では、アダム・スミスの時代から続く自由市場を基本とする経済体制が続いていたものの、独占の進行や貧富の格差といった社会問題も目立つようになっていました。また、1929年の世界恐慌を受けて不況が続き、市場に全面的に委ねることへの疑問が高まっていました。
そういった批判、問題点の指摘から、国家が経済を中央集権的に管理する計画経済が真剣に研究されました。すなわち、市場メカニズムを排し、国家がすべての生産手段を所有し、何を、いつ、どれだけ、どこへ生産・配分するかを一元的に決定していく方法です。この仕組みは、すべての人に必要なものを平等に届ける社会、という理想に基づいて構想され、一部では希望に満ちたビジョンだったのです。
こうした時代に、改めて自由市場の重要性を強く擁護し、計画経済では、自由市場のような資源配分を行うのは困難だと主張したのか、上に挙げたような、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやフリードリヒ・ハイエクといったオーストリア学派の経済思想家たちでした。
ミーゼスやハイエクらオーストリア学派の主張は、計画経済を支持する立場からは激しい反論を受けました。例えば計画経済陣営のオスカー・ランゲらは、セリ方式など市場を模した仕組みを導入すれば、計画経済でも価格形成と資本財配分は可能だと反論しました。その結果、一時的には、社会主義・計画経済のほうに軍配が上がったと評価されたのです。
そして実際にその理論に基づき、社会主義国では、計画経済が実行されました。しかし20世紀後半にかけて、ミーゼスらの主張は現実のものとなっていきます。つまり、計画経済の困難さが、明らかになってゆきます。
たとえば旧ソ連では、国家主導の経済計画により農業の停滞や粗悪品の大量生産、消費財不足が深刻化しました。また、中国でも20世紀半ばに、大躍進政策と呼ばれる計画経済政策が実施され、国家による農業の管理や非現実的な生産目標が強行されましたが、このことが大きな要因の一つとなり、深刻な食糧不足と数千万人と推計される餓死者を招いたとされています。
こうした歴史的経緯をふまえると、ミーゼスやハイエクが唱えた自由市場の優位性は、単なる理論にとどまらず、実際の社会実験を通じて裏付けられたものだったと言えるでしょう。
その後、20世紀には、アメリカ中心に市場を重視した経済が、発展していきます。
ただ、詳細はまた後のクイズでのご紹介となりますが、上述したような自由市場というものは、西洋諸国でも実現されていません。冒頭にお伝えしたように、現在に至るまで、市場ベースの経済ではありつつも、様々な国家による市場介入は、積極的に行われています。
そこには次のような考えがあります。
市場経済は確かに優れた仕組みで、市場をベースにすることは必要だが、市場にすべて任せることは、やはり弊害もあるだろう。という考えです。
こうした考えの一つとして、市場の失敗という言葉があります。これは、自由市場に任せたままでは、社会的に望ましい結果が得られない現象を指します。例えば、独占、公共財(道路や警察など)の問題、外部性の問題(公害など)、情報の非対称性(保険市場など)といった問題が挙げられます。また、広い意味では、不況や経済危機が、自由市場では回復しにくいのでは、というようなことも、市場の失敗として指摘されます。
その結果、20世紀から現在に至るまで、(計画経済に比べたら市場経済ベースですが)、国家による積極的な市場介入は常に行われています。
しかし、もう一つの視点もあります。そういった経済的問題や混乱を、自由市場の限界と捉えるのではなく、むしろ逆に、多くの政府介入が行われてきた結果、とみる考え方です。
たとえば、今まで見てきたような、中央銀行による金融緩和政策、政府による補助金や産業支援、救済されるべきではない企業の延命(いわゆるゾンビ企業)などは、本来の市場メカニズムを歪め、競争の淘汰原理を弱める要因となり得ます。これにより、上述したような価格形成や資源配分が妨げられ、結果として市場の健全性が損なわれ、市場メカニズムが歪められていたのではないか、というような視点です。
つまり問題は自由市場そのものではなく、不完全な市場環境と過度な干渉の混在にあるのではないか、という批判です。この視点からは、むしろ市場の原理をより尊重し、中央による市場への介入をなくし、市場の働きを最大化する方向性を考えていきます。
このように、20世紀の自由市場経済か計画経済か、という問いは、形を変えつつも、現代も続いているのです。そして現在の世界情勢を見ると、市場への介入は、再度、高まる方向に世界の潮流は動いているようです。
こうした文脈において、21世紀の今、新たに登場したビットコインは、自由市場の化身ともいえる存在です。
ビットコインネットワークは、その仕組みからして、参加に制限がなく、人々の経済的合理性に任せて構築され、一切がオープンで自由です。また、そこから生み出されたものは、中央を排し、供給が完全に統制され、また個人が本当の意味で所有、利用できる電子通貨です。
そしてこのようなビットコインの性質は、詳細はまた後になりますが、「貨幣」という自由市場の根幹へのアプローチです。それは、現状の不完全な自由市場を改善する非常に有効な手段であり、自由市場をアップデートする、最も重要なピースとなる可能性があるのです。
さて、今回は自由市場の重要性について、システムとしての有効性や効率性の面から説明しました。しかし、自由市場の価値はそれだけにとどまりません。それは、社会や人間の在り方に深く関わる、倫理的な意味も備えているのです。次回は、そのような自由市場の倫理的側面について、お話ししたいと思います。