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コラム 14 ビットコインくん

14自由と国家とビットコイン

ビットコインについて、これまで様々な角度から見てきました。そこでは度々、「自由」と「国家」という言葉がキーワードになってきたと思います。そこで今回は、自由と国家とビットコインの関係について、改めて見直したいと思います。

自由の思想 ― リバタリアニズムとは

みなさんは「リバタリアニズム(自由至上主義)」という考えをご存じでしょうか?今まで何度かクイズの中でも出てきたのですが、これは言葉の通り、自由を最も重要な価値とする倫理、政治哲学です。リバタリアニズムに共感する人を「リバタリアン」と呼びます。もちろん、すべてのリバタリアンがビットコインを支持しているわけでは全くありません。逆にビットコイン支持者が全員リバタリアンというわけでもありません(こっちはかなり多い気はしますが)。

しかし、リバタリアンの発想を知っておくことは、ビットコインを理解・・・・というより、「ビットコイン周辺を彩る自由文化」を理解するうえで、ある程度意味があることかと思います。

というわけで、今回はまず、リバタリアンの考え方(の一例)から紹介していきましょう。

あくまで一つの捉え方として、気軽に読んでいただければと思います。

自分は自分の所有物。あと労働の成果も

リバタリアニズムの思想は、自分という存在は自分自身の所有物である、という前提に立脚しています。

この自己所有権は、自分の行動の延長線上にあるもの、すなわち労働の成果や対価である財産にも及びます。人間には、他者を侵害しない限りにおいて、自分自身と財産を自由にする権利があります。自己所有権は、人間が生まれながらにして備えている自然権です。これは、自然権に基づくリバタリアニズム、という一つの考え方です。

やたら回りくどい言い方ですね。ざっくりいうと、自分自身は自分のもの、労働などによる財産も自分のもの。他人を侵害しない限り、自分のものは自由にしてよい。ということです。何やら難しい言葉で、当たり前のことを言っているような気がするかもしれませんが、ここからどのようなことが導かれるでしょうか。

自由・価値多元性-暴力・強制はダメ

まず第一に、自由であるということは、例えば当然、暴力的な支配や強制は許されません。暴力、支配、強制が自由に反する、ということは誰もが直感的に理解できるでしょう。

精神的自由・個人の自由

また、思想や言論の自由、価値観などといった精神的な自由などもあります。たとえば、ある人はキリスト教徒で、別の人はイスラム教徒かもしれません。他のある人はベジタリアンで、他の誰かはLGBTのパートナーと暮らしているかもしれません。それらはすべて、個人の価値観に基づいた選択であり、どれが正しいと社会や他人が一律に決めることではありません。

こういったことには、共感する人も多いでしょう。しかし、次のようなことはどうでしょうか?

国家は自由を制限する強制力を伴う装置

自由ということを考えていくと、次に、最大の干渉主体である国家のあり方について考えなければなりません。このあたりからビットコインとの関連性が見えてきます。リバタリアンの考えでは、国家とは本質的に、暴力を伴う必要悪です。確かに、国家のような仕組みがなければ、自然状態の中で人々が孤立して生きるのは非常に厳しいでしょう。そのために共同体を維持するために国家という仕組みが必要になります。しかし国家とは本質的に、自由を制限する強制力・暴力を伴う装置です。法律や制度は、最終的には従わなければ罰を受けるという圧力によって機能しています。たとえその理由が共同体の維持であっても、その背後には常に強制による自由の抑制が存在します。暴力による自由の制限は、リバタリアンが一番に否定するものでした。そのため、リバタリアンは、国家による介入がどこまで認められるかというのは、倫理的に厳しく批判・制限されるべきものだと考えます。

倫理的に妥当な国家とは?-最小国家論

例えばリバタリアニズムの代表的論者であるロバート・ノージックは、倫理学的な観点から、最小国家という考えを導き出しました。最小国家とは「警察・国防・裁判所」の機能のみを有する国家のことです。彼は、倫理的に突き詰めて考えると、最小国家という形態こそが妥当な国家の形態であり、「どうしてこれ以上のことをあえてするのか、また、どうしてこれ以下しかしないのか」と述べています。

(論理的な導出過程については、ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)をご参照ください)

福祉や再分配や経済的介入はどこまで認められるのか

この国家の最小化という原則は、税制や福祉、社会保障、公共財の是非にも及びます。ここが果てしない侃々諤々の議論となる部分ですが、注意すべき点として、リバタリアンは、福祉などの理念そのものに反対しているわけではありません。多くのリバタリアンは、困っている人を助けたり、協力し合って社会を良いものにすることが道徳的に重要である、という点には共感するでしょう。しかし、問題はそれが国家という強制力によって実現されることにあります。たとえば、税による再分配とは、ある人の財産を国家が取り上げ、それを別の人に再配分する仕組みです。これは善意に基づいた政策であっても、自由の一部である私有財産権を侵害するおそれがあります。

福祉政策や課税などが、どこまで許されるかは、リバタリアンの中でも立場が分かれるようで、

逆に福祉はおろか、最小国家すら不要だとする

という考えもあります。

どの立場にせよ、リバタリアニズムの思想に基づくならば、現状の国家による圧倒的な介入からすれば、ごく小さい国家介入のみを限定的に認める立場になるでしょう。

暴力的な強制をしているのはどちらか?

もう一度、重要なので誤解が生じないよう指摘しておきます。リバタリアンが福祉の縮小や最小国家を主張するときには、それはあくまで国家による「暴力的な強制力」を否定する立場です。言い換えれば、助け合いや共同体の価値そのものを否定しているわけでは、全くありません。むしろ、リバタリアニズムは、自由意志に基づいた様々な社会モデルの共存を歓迎します。

たとえば

などです。

さらに言えばリバタリアンは、むしろ、そういった助け合いや共助への期待が大きい(大きすぎる?)といっていいかもしれません。上のような国家機能の縮小した社会では、公的介入がない分、自主性に基づいた共助の理念や、民間による協力のシステムが、より重要になるからです。

また、自由や多様な価値観を受け入れるという点で言えば、例えば

ですら、それに参加する人たちの自由な選択に基づき、他者の自由を侵害しない限りは、尊重されるべきだと考えます。要するに、リバタリアンが問題視しているのは、特定の思想、仕組みそのものではなく、それを他人に暴力的に強制すること、すなわち自由を制限することなのです。

個人レベルだろうと、国家レベルだろうと(国家レベルだからこそ、より警戒して)、その理由が、善意だろうと、公共の福祉だろうと(善意や公共の福祉の名のもとだからこそ、より警戒して)、「暴力的に価値観を押し付けたり強制したりするのは、不当であり危険だ」といっているのです。

リバタリアニズム×自由市場という相互補完的組み合わせ

さて、倫理に基づいて、国家の介入を排していくのはいいとして、しかしそれは現実的に成り立つのでしょうか?上に挙げたように、ある程度の共助などの仕組みはできたとしても、社会全体として、存続可能なのでしょうか?これはリバタリアニズムへの度々ある指摘です。理念は良いとしても、非現実的で、机上の空論ではないかという指摘ですね。

これに対する応答として、今まで見てきたような、自由市場的な発想が登場します。

さきほどリバタリアンの考える国家の役割として「警察・国防・裁判所」(+最低限の公共財・セーフティネット程度)などの最低限のもの、ということをお伝えしました。では、実際の国家は、それ以外に何をしているのでしょうか?圧倒的に大きいのが、財政政策や金融政策といった、経済的な介入です。

そして今までのクイズを思い出していただきたいのですが、財政政策や金融政策という国家による市場介入は、むしろ経済的にマイナスに働く可能性が大いにあるものでした。国家の介入を極力減らした自由市場ベースの経済こそが、持続的成長ができ、不正や歪みの生じにくい経済システムの可能性があるわけです。

おわかりでしょうか?要するに、リバタリアニズムの倫理的な観点からの最小限の国家論と、経済学的な観点からの自由市場を中心とした経済、という組み合わせができるのです。最小限の国家論+自由市場という組み合わせで、リバタリアニズムの倫理的な思想が、実践としても成立しうるものと期待されるのです。

そして、ビットコイン

そして、これももうおわかりでしょうが、ビットコインの背景には、自由市場の発想や貨幣発行自由化論が強く見られましたね。つまり、そういった理論と親和性のあるビットコインは、その倫理的な組み合わせともいえるリバタリアニズムという自由思想とも、極めて強い関連性があると言えるのです。

リバタリアニズムの現状

以上、リバタリアニズムの思想と自由市場との関係、いったことをお話ししてきました。しかし「ビットコインの現在地編」でもお伝えしたように、現在の世界の政治経済において、中央銀行などの国家介入を排した自由市場という発想は、全く主流ではありません。同様に、リバタリアニズムという政治哲学も、実際の政治の中では、かなり少数派といっていいでしょう。リバタリアニズムという政治哲学もまた、過激な理想を追うような考え方であり、現実化が難しい状況なのです。

許容する国家介入の度合いに関する、微妙で重要な補足

上では、説明の便宜上、リバタリアニズム(倫理)×自由市場(経済)というように、倫理と経済を分けた説明をしました。ただ厳密にいえば、倫理と経済、さらに政治といったことは、総合的に絡んだものです。両者は厳密に切り分けるようなものではありません。なので、リバタリアニズムという思想には、元々多分に経済学的要素が含まれています。

そして、ここからが微妙で重要な補足ですが、そういった倫理と経済、政治を総合して考えたうえで、国家介入をどこまで許容するか、ということについては、自由を重視する人々の中でも、様々なグラデーションがあります。先に挙げたような、最小限の国家なのか、最小国家なのか、無政府資本主義なのか、などといった差です。

例えばこれまで、自由市場を重視する代表的な理論として、オーストリア学派を度々紹介してきましたが、オーストリア学派の中でもハイエクは、法の支配の下での限定的な政府機能を認めうる立場として整理されます。一方、現在のオーストリア学派の一大潮流を作り上げたマレー・ロスバードは、無政府資本主義の妥当性を論証し「資本主義は、アナーキズムの最も完全な表現であり、アナーキズムは、資本主義の最も完全な表現である」と述べています。この立場からすれば、国家と自由市場は、組み合わせて折り合いをつける、といったものではなく、ハイエクの立場はおろか、最小国家ですら、矛盾をはらむものとなります。

そして、ビットコイン周辺文化ではどうかですが、基本的に国家介入へ強い警戒をもつビットコイン界隈でも、どこまでの国家介入を認めるかということについては、様々な意見があるようです(というか、誰がどう考えているかはわかりません)

ただ「ビットコインの現在地編」でも注釈しましたが、最小国家論を論証するノージックにせよ、「無政府資本主義」を論証するロスバードにせよ、過激な反国家運動といった類のものではありません。相当に厳密な思考、論証の帰結としての自由です。この辺りにご興味がある方は、ぜひ、彼らの強靭な思考を学びつつ、ご自分で考えていただければと思います。

ビットコインはあくまでテクノロジー

さて、ここで改めてビットコインについて考えてみます。今まで自由思想について語ってきましたが、ビットコイン自体は、当たり前ですが、システムであり思想ではありません。淡々とコードに基づきネットワークとして動作し続けているだけです。しかし、その設計には、強烈に沸き立つ自由思想の匂いがします。

ビットコインの仕組みや特徴に関する言葉を羅列してみましょう。

非中央集権・耐検閲性・強制力のある希少性・セルフカストディ(自己保管可)、自己検証可・透明性・無国籍・パーミッションレス・トラストレス・パブリックチェーン・単一障害点なし・ノーダウンタイム・性悪説に基づく仕組み・Proof of Work など

これらはシステムとしてのビットコインの特徴を表したものですが、どうでしょう?国家や権力の強制から自由・自律を勝ち取るという理念が、匂い立つのではないでしょうか?要するに、ビットコイン自体はテクノロジーであり、システムであり、思想とは無関係に、誰でも参加できるネットワークですが、しかし同時に強烈な自由思想とつながる設計的な特徴を備えているということです。

サイファーパンクはコードを書く

また、テクノロジーによる自由という発想では、前回、サイファーパンクのことをご紹介しましたね。サイファーパンクの運動は、ビットコインの、より直接的な源流ですが、ここでサイファーパンク宣言の有名なフレーズをもう一度紹介しましょう。

「サイファーパンクはコードを書く」

「……我々の書くソフトウェアを承認しない人がいても構わない。なぜなら我々はソフトウェアが滅ぼされず、広域分散システムが阻止できないということを心得ているからだ。」

この言葉に象徴されるサイファーパンクの理念は、自由やプライバシーといった権利を獲得するうえで、従来の政治や権力闘争、ロビー活動といった方法ではなく、テクノロジーによって対抗するという理念だといえるでしょう。

これは、国家などの絶大な権力から、暗号技術というテクノロジーによって、否応なしに自由と権利を奪取してみせるという、強烈な宣戦布告です。つまりビットコインは、自由思想を見て取れるものでありますが、あくまでテクノロジー、システムとして、自由を具現化していくものなのです。

ビットコインという名の自由の拡大

そのような自由思想を多量に含んだテクノロジーであるビットコインは、わずか15年で、マニアの遊びに過ぎないものから、国家規模で採用するような、巨大な存在となりました。この現象は夢物語であった(現在もそうである)リバタリアニズムや自由市場をベースにした社会といった自由への主張がテクノロジーを土台にして、まったく別の角度から、怒涛のように普及してきていると捉えることもできるのではないでしょうか。

もちろん、それでもまだまだ、夢物語だというのは、前もお伝えした通りです。しかし、人類の歴史という長い時間軸で見れば、恐ろしいほどの急速さで、世界に普及してきているとも見ることができます。

ビットコインは欲望を吸って巨大化し、欲望を自由に変える

ここで非常に重要なポイントがあります。いままで散々、自由思想とビットコインの関連について述べてきました。しかし、ビットコインの急拡大は、自由思想という理念に基づいた「ものではない」ということです。

誰もがおわかりでしょうが、ビットコインの広がりは、自由思想ではなく、経済合理性に基づいてのものです。ほとんどの人は、別に、これまで見てきたような自由思想に基づいてビットコインを考えているわけではないでしょう。要するに、「儲かるから」ということで広がっているのです。

これはまったく、否定されることではありません。というか、多分これは、ビットコインの初期設計に組み込まれたもののようです。ビットコインがビットコインとして機能するためには、世界に広がることが必要ですが、それにはまず、儲かるという要素が重要だと、サトシ・ナカモトは考えたように思います。そのため、まず価格が上昇するということを念頭にした仕組みを、組み込んだように思えます。(半減期の仕組みなど価格が上昇させるような仕組みに見えます)

しかし経済合理性によって、圧倒的に世界に普及していきながら、そのコアの部分には、今まで見てきたように、システムの特徴として自由思想の特徴もまた、強烈に刻み込まれているのです。要するにビットコインは、経済合理性、つまり儲けたいという人間の欲望を強力な推進力として持ちつつ、同時に自由思想を広げ、具現化していく、そのような、したたかで巧妙な仕組みなのです。

ビットコインは国家を内側から食い破る

以上のような仕組みを評して、ビットコインは、トロイの木馬に例えられることがあります。既存金融や国家の中にビットコインは急速に組み込まれつつありますが、それは当然、自由思想ではなく経済合理性に基づくものです。しかし、トロイの木馬のように、その中には、既存金融や国家を内部から破壊するような、自由思想が強烈に組み込まれているのです。

経済合理性に基づいて取り入れたはずのビットコインが、人々の欲望の分だけ圧倒的に巨大化し、いつしか制御しきれなくなり、やがては既存の金融社会や国家を内部から食い破って、自由思想を、テクノロジーの力によって、半ば強制的に具現化していく。ビットコインとは、そのような全く新しい形の、自由思想の運動、夢物語の実現と捉えることができるのです。

ビットコインは自由の歴史に刻まれる

さて、すべてがオープンであり、性悪説に基づいて設計され、経済合理性に基づいて、勝手に分散、拡大し続け、いまや国家にも止められないところまで拡大したビットコイン。その結果、創発されてきたものは、非中央集権であり、耐検閲性があり、誰でも自由に参加でき、グローバルに広がり、すべてが透明な、新しい資産・貨幣です。

そして、貨幣というものが、権力の源であり、国家や権力者が最も手放したくない力そのものであることを考えれば、貨幣を、本当の意味で個人のものにすることを目指す、ビットコインというテクノロジーは、自由を広げる壮大な夢であり、戦いであり、実践であると言えるでしょう。

もしもビットコインが、この先本当に広まり、世界中で活用されるようになったとしたら。

16世紀の活版印刷が知の独占を打ち破ったように、20世紀のインターネットが情報の自由を解き放ったように、ビットコインは、人類史における自由とテクノロジーの歴史に、文句なく刻まれることでしょう。その歴史年表には「2009年、ビットコイン誕生。国家と貨幣を分離させ、個人の自由と主権を大きく高める起点となった。」と刻まれるはずです。

ビットコイン文化のすゝめ

最後におまけとして、ここまで述べてきた自由の理念を強烈にもつ文化として、ビットコイナーについて紹介したいと思います。ビットコイナーとは、ビットコインを、強烈に愛好する人たちのことです。

試しに、Xなどで、ビットコイナーと呼ばれる人たちの投稿を見てみてください。

いついかなる時も、自由の侵害やプライバシーの侵害を警戒し、

ことあるごとに国家の横暴と腐敗をののしり、

狂気のように、ビットコインのセルフカストディにこだわり、

隣町に引っ越すようなノリで、国籍を変える方法を模索するビットコイナーたち。

実に素晴らしい(笑)

まあ、冗談めかして書きましたが、実際、自由を重んじ、自律や自己責任を受け入れ、学びを続け、社会を一定の懐疑精神をもってみるビットコイン文化というのは、たいへん素晴らしいものだと本気で思います。

もちろん、ビットコイナーといっても、同じ人間であり、不正もすれば誤りも多いでしょう。やたら皮肉めいていたり、ビットコインに対し、あまりに熱心すぎたりと、色々、敬遠したくなる面もあるかもしれません。

しかし、忘れないでください、この文化の中心は、誰か特定の人ではなく、言葉でも権威でもなく、今まで挙げてきた自由思想ですらありません。ビットコインというシステムそのものです。何も言わず、ただ動き、拡大し続けるビットコインというシステムから、自ずと形成された自由文化こそが、ビットコイン文化なのです

最後に、ビットコインに魅了された人々を象徴する言葉をご紹介。

Came for the money, Stayed for the revolution.

「カネのために来て、革命のために残った」

よかったら、あなたもぜひ、そんなビットコイン文化を少しのぞいてみてはいかがでしょうか。

2025年にはリアルでビットコイン好きが集まる場として、東京にTokyo Bitcoin Baseがオープンしました。私もいつか、行ってみたい!!