ビットコインには、人々の自由と権利を守り、自己主権を高めるためのテクノロジーという側面があります。今回は特に、ビットコインが密接に関わる「私有財産権」についてお伝えしたいと思います。
今まで度々お伝えしてきたように、ビットコインには「非中央集権」「耐検閲性」といった特徴があります。ネット環境さえあれば、銀行などを経由せずに誰でも利用できるため、国家の介入や銀行の事情に左右されず、自由に価値をやり取りできます。この特徴は、緊急時や危機的状況で大きな意味を持ちます。
例えば、戦時下や災害時などで金融システムが混乱した場合でも、中央管理者が存在しないため、ネット環境さえ使えれば利用可能です。秘密鍵(≒シードフレーズ)さえ記憶しておけば、物理的に資産を持ち出さずに国境を越え、新天地で再び資産にアクセスすることも可能です。また、強権的な政府による資産凍結や監視に対しても、ビットコインを利用すれば一定程度、資産を守りやすくなります。活動家やジャーナリストは、思想的な検閲や妨害を回避する形で活動を続けることができます。
このように、ビットコインは単なる投資商品ではなく、財産権を守り、拡大し、誰もが自由に経済活動を行うためのテクノロジーであり、すでに世界中で活用されています。
ただ、以上のような、資産凍結などといった話は、我々日本人からすると、あまりピンと来ないかもしれません。しかし、これはそこまで遠い話ではありません。過去の日本でも、国家による実質的な資産没収が行われました。
1946年2月、日本政府は、突如として預金封鎖を発表、翌日から預金の引き出しが大幅に制限されました。ある日突然、預金が使えなくなったのです。さらに同時に新円切り替えが行われました。これにより、国民が持っていた旧円は、使えなくなりました。タンス預金など銀行にないお金も、使えなくなってしまったのです。その代わりにどうしたかというと、預金残高に応じて、銀行から旧円と新円を交換することができました。しかしそれは、生活に必要なごく少額ずつしか、許されませんでした。財産の多寡にかかわらず、強制的に預金が少額しか使えない状況に置かれたのです。
これらの政策は、戦後の急激なインフレへの対応や財政再建のためと説明されて実施されました。そして預金が封鎖されている間にもインフレは進み、後になって受け取る新円の実質価値は大きく低下していったのです。
ただ、この時点ではまだ、あくまで預金を封鎖しただけであって、一応、資産が直接奪われたわけではありません。旧円は1対1で、少額ずつですが、新円に変えることができました。しかし、その年の11月に財産税が導入されました。国民の財産を把握した上で、最高税率90%という法外な課税がかけられたのです。富裕層への課税率が高かったものの、徴収された税の総額は、中間層からの徴収額が最も多かったそうです。このような流れで、力ずくで、国民の財産が政府に没収されたのです。これが約80年前の日本の出来事です。
重要なのは、これらの政策は、非常時の例外として正当化されたという点です。預金封鎖・新円切り替えは「戦後の激しいインフレ抑制」という名目で実施されました。しかしそれは、後に続く財産税のために、国民の資産を把握・管理下に置くという意味もあったと考えられます。また財産税も、最大税率90%という法外な税率だとしても、あくまで国家による徴税権の行使であり、緊急時の合法的な課税と位置づけられました。
世界のどこであれ、非常時に国家が私有財産に手を伸ばすというのは、決して珍しいことではないのです。経済の立て直し、国民全体の平等などの理由が掲げられ、私有財産に対する介入は容認されてきました。これは、今後も何度も繰り返されるであろう、例外という名の、ごく当たり前の傾向なのです。
とはいえ、以上のような暴力的な資産の強奪や、国家の緊急事態などの話は、やはり、なかなかピンとこないかもしれません。ビットコインというテクノロジーを、そのような極限状態に備えて持つべきだと言われても、あまり実感を持てない人が多いでしょう。というか、「ビットコインには耐検閲性があり、国家の没収に備えることができる!」などと主張すれば、多くの人には危ない人だと思われそうです。
しかしそれは、たまたま我々が、私有財産権が侵害されにくい幸運な社会にいる、ということの裏返しなのかもしれません。
ただ、ここから先は、そういった極限状態とは少し違う観点で、私有財産権について、お伝えしたいと思います。
さて、ある意味ここからが本題です。つまり「極限状態ではない我々の社会においても、自由と権利、私有財産権を守るためにビットコインを取り入れていくべきだ」という主張を、何とか皆さんに納得してもらいたいと思います。そのために、ちょっと遠回りですが、そもそも私有財産権とは何か、ということから考えてみましょう
そもそも、私有財産権という権利は、社会的には元から明確に認識・承認されていたものではありません。財産権を自然権の一部として明確化した人物としては、17世紀イギリスの哲学者ジョン・ロックが挙げられます。
彼は、人間は生まれながらに平等であるという前提に立ち、生命・自由と並ぶ自然権として、労働を起点にしつつ、私有財産権の必然性を導きました。自然権というのは、王や国家などに先立ち、人々が生まれながらに持つ権利のことです。それまではむしろ、王や将、神官など、上位の権威・支配者がおり、財産もまた、彼らの支配下にあるという発想が当たり前でした。それがようやく近世になって、人間の平等と自然権(生命・自由・財産)ということが認識されてきたのです。私有財産権は、人類が長い歴史の中で、勝ち取ってきたものだということです。
しかし、本来的に人間に備わるはずの私有財産権が、社会としては、長い歴史を経ないと、認識、承認されてこなかったということは、裏返せば、社会的には、容易に侵害される可能性があるということでもあります。ジョン・ロックはまた、そういった失われやすい生命・自由・財産といった自然権を、人々が相互に守り合うためにこそ、政府・国家というものが成立した、とも考えました。簡単に生命・自由・財産などが奪われてしまうような状況は誰にとっても不都合です。そこで、お互いの自然権を守り合う為に、政府という調停装置を人々の「社会契約」によって成立させたという発想です。
ジョン・ロックの社会契約論と呼ばれるものです。このあたりの話は、社会や倫理の授業で習った人も多いでしょう
そしてジョン・ロックの考えのポイントは、国家・政府というのは、自然権の後にくるものであり、あくまで人々の自然権(生命・自由・財産)を守り合う為のものであって、それ以上のことは契約されていないということです。
これは、それまでの世界観とは逆の発想となります。財産とは王などの上位の権威から、与えられるものだった世界から、すべてに先立ち、自然権として私有財産権があり、国家とはそれを守るために存在するもの、というように、180度発想が変わったのです。
こういったジョン・ロックの思想は、自由、平等、人民主権といったことを高らかに提唱するものであり、後にアメリカ独立宣言やフランス人権宣言の自由の理念へとつながっていきます。ジョン・ロックが自由主義の父といわれるゆえんです。
また、不可侵の私有財産権という考えは、後の資本主義、自由市場の発展の源ともなっていきました。私有財産を個人のものとして認め、国家による介入を最小限に抑えることで、人々には財産を守り、増やそうとする強いインセンティブが生まれます。その結果、競争と淘汰が市場に働き、自由市場は活発に発展していくことができます。したがって、私有財産権は単に個人の権利にとどまらず、自由市場を形づくる前提であり、自由市場を動かすエネルギーともいえるのです。
さらに20世紀に入り、こういったジョン・ロックら古典的な自由思想を、改めて倫理・政治哲学の分野で提唱した人物としてロバート・ノージックがいます。彼はリバタリアニズム(自由至上主義)と呼ばれる政治哲学の代表的人物でジョン・ロックの思想をふまえつつ、自己所有を基盤にした自由と私有財産権についての理論を構築しました。そして倫理的な観点から、国家の介入は最小限にするべきだと主張しました(最小国家論)。
彼の思想に照らせば、現在の国家による経済・社会への介入の多くは、実は倫理的に不当なものとなります。彼の思想からすれば、税や社会保険料ですらも、多くは不当な私有財産権の侵害にあたります。このあたりは、かなり過激な意見ではあるでしょう。
ただ、自由の歴史、自由思想や自然権といったことを、倫理的に丁寧に考えていけば、税金なども含め、国家の介入がどこまで正当化されるか、というのは、おおいに議論されるべきことです。というか、実際、議論されてきたことです。例えば20世紀のアメリカ思想の中で、リベラル、リバタリアニズム、それに続くコミュニタリアニズムといった倫理・政治哲学の論争は有名ですし、それは形を変えながら、21世紀の今も続いていることです。
その議論の詳細は、非常に精緻で遠大なので、ここでは説明できませんが、少なくとも、現在の国家による私有財産権への介入については、単に経済学的な効率や帰結的な観点からだけでなく、哲学・倫理的な観点からも、疑問を呈し、批判的に検討すべき余地があるということです。
さて、思想的な話はいったんここまでにして、現実社会の話に戻しましょう。先に述べたように、現代の日本などでは、私たちの私有財産権は、国家による資産凍結などといったことは、すぐに起きる状況ではないかもしれません。(起こりうることだとは思いますが)
しかしだからといって、私有財産権をめぐる戦いが何もないというわけではありません。というよりむしろ、直接的な没収がしにくくなった分、間接的でわかりにくい私有財産権の浸食が、日々行われているといっていいのです。これは要するに、いままでずっとお伝えしてきた話です。
政府・中央銀行による果てしない通貨発行、恣意的な金融政策、限度を知らない信用創造、バブルとその崩壊、非効率で利権の多い財政政策などなど。それらの国家の恣意的な介入の結果、最終的に起こっているのは、我々の通貨価値の減損だということは度々お伝えしました。インフレ税・金融抑圧政策という形で、意図的に、資産価値の目減りが誘導されることも、これまで何度もお伝えしてきました。
自然権であるところの私有財産権という観点からすれば、これらのことは直接的な侵害ではないにしろ、やはり国家による間接的でわかりにくい、私有財産権の侵食といえるのではないでしょうか。
ここで、微妙なポイントを指摘しておきます。間接的でわかりにくい、といっても、それは別に、政府がこっそり隠して行っているという意味ではありません。通貨発行の話にしろ、財政政策、金融政策の話にしろ、ニュースやYouTubeなどのネットメディアでも、度々話されていることであり、その政策決定や実行の流れも、基本的には発表もされ、制度に則り、オープンで実行されるものです
また、私有財産権の浸食といっても、暴政・悪の政治といったことでもありません。あくまで、正義の理念を掲げ、国民生活の安定だったり、経済の活性化だったり、人々の平等だったりと、正当性を伴って行われます。ただ、複雑怪奇な制度の仕組みや、膨大な量の経済・政治の話、様々な専門家による意見など、膨大な情報の海の中で、我々はそういった話に、注意や関心を向けることが難しくなっています。また、様々な視点や正義があり、建前があり、そういったことが絡み合い、善と悪といった構造では、全く分けられないような複雑な状況になっています。
つまり、現代における私有財産権の浸食は、多くの場合、暴力的でもなく、また、さほど秘密裏にでもなく、正当性も含みつつ、よくわからないまま、なんとなく起きていることが多いのです。時には、国民があまりピンとこないまま、喜んで自由や財産を差し出し、それを応援するようなことすらあるのです。そうしていつの間にか、私たちの私有財産権、自由市場、そして自由を失っているのです。
この観点からすれば、我々のいる社会は、実は「私有財産が奪われることのない幸運な社会」などでは全くないということです。ジョン・ロックの時代から、我々の自由をめぐる戦いは続いており、全く終わっていません。戦いの形が直接的なものから、巧妙で間接的なものへと変質しているだけなのです。
そのような状況の変化において、私有財産権を守る方法には、どうすればいいでしょうか?かつては剣や金庫が、財産を守るための主な道具だったかもしれません。しかし、現在の間接的な侵食に対して戦うためには、それでは足りません。
複雑怪奇だったり甘い誘いだったりする制度、政策、社会に対し抵抗するには、現代社会を懐疑・批判的に捉えることが必要です。偉大な先人たちの自由思想、政治哲学や倫理、経済学といったものを学び、歴史を学び、社会に対して懐疑精神、批判精神をもって対抗することが、自由を守るための現代の武器になるのではないでしょうか。
「民衆がものを考えないということは、支配者にとっては実に幸運なことだ」
と述べたのは、かのアドルフ・ヒトラーです。改めて、自由とは、常に守り続け、獲得し続ける必要があるものなのです。
以上、自由と権利の一つとして、私有財産権について様々な角度から見てきましたが、そのうえで「極限状態ではない我々の社会においても、自由と権利、私有財産権を守るためにビットコインを取り入れていくべきだ」という主張についてまとめましょう。
ビットコインは、冒頭に述べたように、直接的には、耐検閲性・非中央集権などのテクノロジーにより、資産の強奪や没収などの抵抗手段となります。それだけではなく、強制力のある希少性などの性質により、間接的にも、国家による通貨膨張など、私有財産権の間接的な浸食に対する抵抗手段となります。
要するに、ビットコインというのはまさに、不可侵の私有財産権という自由思想を、テクノロジーによって具現化したものと捉えることができるのです。
そして、そのような設計であるビットコインは、その利用方法や文化も、私有財産権を極めて重視した設計、仕様、文化になっています。ビットコインだけではなく、その周囲、ビットコインを使用するためのウォレットなどのアプリもまた、その理念が強く反映されたものが多いのです
つまり、ビットコイン自体が、直接・間接的に財産を守る力がありつつ、それを利用する個人や文化レベルとしても、ビットコインを保有し、使用することは、私有財産権の浸食に対する、強いアンチテーゼであり、懐疑精神と批判精神を高める、自由思想の実践ともいえるのです。
ここでひとつ重要な注意点があります。
「ビットコインは、そこに関わる使い方や文化も、私有財産権を極めて重視した設計、仕様、文化になっています。」と伝えましたが、これはあくまで、ビットコインを「セルフカストディ」によって保有・利用することが前提の話です。
セルフカストディとは、ビットコインを自分自身で管理・保有することです。ビットコインの秘密鍵(≒シードフレーズ)というパスワードのようなものを自分で管理し、自分のウォレットを使ってビットコインを管理することで、初めて財産の自己主権といったビットコインの本来の機能が発揮されます。
逆に、ビットコインを取引所に預けたままにして、秘密鍵の管理を、人に受け渡したままだと、非中央集権、私有財産権、自己主権などの特質は失われてしまいます。
そういうわけで、もしも取引所でビットコインを買ったら、ごく少額だけでもよいので、ぜひ、セルフカストディを試してみてほしいと思います。(というか、無くなるリスクがあるので、はじめは必ず少額で試してください!)
これはなんというか、感覚的な事なのですが、実際にセルフカストディを実践すると「ああ、これは本当に、自分が自分で財産を管理しているんだ」という感覚が実感としてわかるように思います。シードフレーズの管理をあれこれ、工夫したりしていると、「今、この自分のビットコインは、本当に世界中だれも、手を出せない!アメリカ政府だろうと何だろうと、自分以外、誰も操作できない!」と、頭では分かっていたことでも、なんだか感動したりします。
さらに、他の人に送ってみたり、いろいろなウォレットを比較してみたり、あれこれ手を動かすことで、ビットコインを保有・使用することが、私有財産権、そして自由と権利への感度、感覚を高めることにつながる、ということが、実感として感じられるように思います。「コンナモノが世の中に、それなりにでも広まることが出来たら、確かに、私有財産権や自由が、非常に高く守られる社会になるに違いない!」とつくづく思います。
陸で見ているだけでなく、実際に泳いでみることで得られる解像度は、だいぶ違うわけです。
まあこれは感覚的な事なので、人それぞれでしょうが、ともかく、ビットコインは、セルフカストディで保管することが重要、というのは、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。
最後に、そういった私有財産権のテクノロジーであるビットコインを象徴するような、ビットコイン界隈で非常によく使われる言葉をご紹介して終わりにしましょう。
Not Your Keys, Not Your Coins ((秘密)鍵を持たぬ者は、コインを持たず)
ぜひ、セルフカストディを!